経営学と実務(3)~経営学と数字・財務~

「経営学と実務」というタイトルでの連載、その1回目は人間学、2回目はイノベーションと展開したが、今回は数字・財務の重要性について触れる。

私が数字の大切さを痛感したのは、公会計に触れたときだった。大学に来る前に金融機関(旧、中小企業金融公庫。現、日本政策金融公庫)に28年勤務したので、財務分析には精通していた。決算書(財務三表)を3分見れば、貸せる会社か、貸せない会社かの見極めが付いた。ところが、プロの私が市の決算書を、しかも監査委員という立場でどれだけ読んでも理解できないのだ。

 

公会計の限界~単式簿記の世界~

その理由ははっきりしている。公会計には財務の理解ということに関する常識とも言える原則が確立されていない。言い換えれば、公会計の世界は単式簿記で、現金の出入りの管理とその相手勘定を記帳するだけだから、現金の出入りの理由としての損益取引と資産取引を区別しない。わかりやすく言えば、税収も借入も歳入、給料の支払いも借金の返済も小学校の建設資金の支出もすべて歳出である。端的に、この世界では借り入れができていれば黒字と表現する。これは恐ろしいことだ。国民に対するアカウンタビリティ(説明責任)の意識は極めて低い。

奥さんが「お父さんの今年の収入が6百万円で、支出が8百万円、差額の2百万円は○○銀行から借りたから大丈夫よ」と言っていたら、いずれその家計は破綻する。まさに、国から始まって、都道府県、市区町村に至るすべての公会計がそのような発想に立つ単式簿記なのだ。その恐ろしさは、一部の ――すべての、ではない―― 公認会計士、税理士等会計の専門家、心ある政治家や官僚は気づいているはずだが、社会の惰性というものは怖いもので、明治以降、140年間、変えることができないまま今に至っている(さすがに東京都は複式簿記会計を導入し、法定の単式簿記会計と併用している)。財政の破綻状況こそ、日本経済最大の問題である。

 

企業会計の世界~複式簿記の世界~

これに対して、企業会計は複式簿記によって損益取引と資産取引を区別し、既述のように損益と資産・負債・資本の実態を正確に把握するプロセスができており、収支の実態と資産負債の増減の理由が把握できるようになっている。

複式簿記の成立は1494年、イタリアのルカ・パチオリ『算術幾何比例総覧』によると言われるが、東京都を例外として、すべての公会計は500年にわたる複式簿記という人類の知的資産を活用していない。また、日本に複式簿記が入ったのは明治の初期であるから、公会計は140年間、変わり得ないでいる。人口が増え経済が成長して、税収が増え続けている間はそれでも良かろうが、成熟経済に入った1980年代には複式簿記の導入に舵を切るべきだった。

 

財務と人間を結びつける

このようにして、数字・財務の重要性はわかるのだが、次なるテーマは財務が真に活用できるには、数字と経営あるいは人間を結び付ける知恵が要るということだ。

これは当たり前のことのようだが、ほとんどがわかっていない。なぜなら数字を扱う専門家は税理士、公認会計士、場合によっては金融機関であるが、これらの専門家たちはその専門性のゆえに、企業経営の現場で財務と経営と人間がどのような有機的、構造的な関係性を持って、機能しているかを確認できていない。

これを何と表現すれば良いのだろう。専門性の落とし穴、業際知識の必要性、新たなリベラル・アーツ(liberal arts、教養)の必要性、「業際的専門領域」――矛盾概念だが――の確立とでも言えばよいのだろうか。しかし、私は断言するが、これがなければ、財務は真に有効に経営と結び付かない。数字・財務と経営と人間がどのように結び付くか、その要点を図示したので、見ていたただきたい。

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 図表 会計と人間の結びつき

 

管理会計は必須知識

図表に示すように、簿記・会計・財務・財務分析までは常識的な話だから、説明を省略するとして、これに加えて経営に必須なのは管理会計(managerial accounting)の知識である。これは経営のため、特に経営改善のための手法であり、年商が数億円程度の小企業であれば、そんなものは要らないが、10億円レベルの中企業、50~100億円を超えて中堅企業のレベルに至れば、この手法が必須となる。その骨子は部門別業績管理と利益計画づくり(その究極が中長期経営計画)で、格別難しくない。

このあたりまでは常識であるが――とは言っても、金融の実務の中でここまで展開するのは突然変異的現象ではあるのです――、中小・中堅企業の経営者相手に実務をやっていたため、私にはもうひとつ先のものが見えている。それが「現場データ」だ。

 

「現場データ(KPI)」という手法

現場データとは、図に描いているように、財務に変換する前の経営現場の数字・数量データである。たとえば、婦人服メーカーがあったとして、工員一人に一台のミシンをあてがい、8時間勤務したら、一人当たり何枚、縫えるかといったデータである。これは労働生産性とか工数といった概念に展開する。ここまで降りていかないと、設備投資の評価、利益計画、現場改善のどれをとっても本当のもの――実効性のあるもの――にならない。管理(management)の核心はここだ。

余談ながら、現場データとほぼ類似の概念にKPI(Key Performance Indicator、重要業績指標)がある。BSC(バランス・スコアカード)の手法として登場するのだが、これは1992年に『ハーバード・ビジネスレビュー』に発表されたのが最初のようで、日本に輸入されたのは2000年代半ばであるから、さほど古い経営手法ではない。私は1995年に出版した『利益を生み出す管理会計のポイント』(TKC出版)の4章2節で「現場データの管理」というタイトルで説明し、独自に財務と経営を結び付ける必須の手法として示している(自己PRめいているが、ご容赦)。

財務分析が管理会計を経て現場データ・KPIまで展開されていけば、数字の分析としてはこれが究極である。ここまで行けば、経営と人間に展開していける。

 

数字・財務は経営と人間にどう結び付くか

さて、経営への展開に関しては、「永続する経営の3要素~戦略・管理・理念」という概念で、自分流の経営学体系ができている。事業は時間軸で見れば、戦略→管理→理念と実務展開する。これが螺旋状に継続循環するならば、これが事業成功の要点で、失敗企業となる場合は、戦略要因で成功してもこれに続く管理要因、理念要因の欠落で失敗し、さらには新たな戦略状況に対応できずに低迷してゆく。今の家電業界がそれである。普通は理念を先に持ってくるが、既述のような事業の生成の実態を見れば、そのような整理は観念的である。

とは言いながら、構造的には戦略要因と管理要因を理念が――広めに、人的要因と言い換えても良い――下支えしていることは間違いない。その事実をたとえば、「理念と戦略の同時併行」とか「理念が独自性を生む」とか「理念の展開としてのポジショニング」などと表現している。

また、管理の中心は教育であるし、既述の部門別業績管理は資本主義経済・市場経済の「厳しさ」の企業内的展開なのだ。確かに、京セラ創業者の稲盛和夫氏はこれを「従業員に経営者意識を持たせる」と表現している。

 

究極にあるのは「人間学」

そして、最終的には「下支えしている」人的要因の究極が何であるかを言わねばならない。それはマズローの欲求階層説に従って言えば、端的に、自己実現欲求に基づく動機づけである。人間存在の本源がこの部分にあり、ここを刺激することによって人間が本来的に持っている善なる可能性が具体化してゆく。このレベルで人生が展開することが人間の幸福というもので、ありとあらゆる教育の原点がここにある。正しく動機づけされれば、経営者も従業員も、経営のあらゆる状況に対応する態度が生じる。したがって、この部分を深掘りした知恵が必要で――説明省略して結論のみを言えば、自己実現の上位の自己超越のレベルで道義心が確立される。これが成功の究極の条件となる。ここまで行かないと、成功が失敗の原因となる――、それを私は「人間学」と表現し、経営学の土台にはこれが必須であると理解している。