患者中心主義の思想から金融機関が学ぶべきこと

医療の世界には、「患者中心主義」という言葉がある。20世紀に医療は目覚ましい進歩をとげたが、それは同時に専門家である医療者側に対して、ある種の傲慢さをもたらしたという指摘がある。「患者中心主義」では医師が患者をコストや単なるサービスの受け手として見るのではなく、“重要な資源”や“医療の真のパートナー”として見なければならないという考え方だ。

アメリカのNPO法人IHI(保険医療改善協会)会長で、「患者中心主義」の普及の活動を進めるドンベリック氏が、「患者中心主義」が実現していない医療の現状を憂いて講演で発表している。ここで紹介されるバートは、芝刈り機レーシングというモータースポーツで優秀な実績をもつ架空の人物である。少々引用が長いが、以下に紹介する。自分がバートになった気持ちで読んでみてほしい。
(「誰か世界を変えるのか」フランシス ウェスリー 他 2008 英治出版 より )

バートにガウンを着せる。下着は丸見え。腕にラベルを貼る。そして、パートの枕元で、まるで彼がいないかのように話す。素人にはちんぷんかんぷんな言葉づかいで。見舞いの規則を告げる。バートは自宅では自分の薬を飲んでいたが、ここでは違う。薬は取り上げ、病院の薬を小さな紙コップで一日四回配る。バートから検査結果を訊かれたら、許可がないと話せないと答える。結果を知ったらバートが不安になるかも知れないから。-全米ランキング第十三位の芝刈り機レーサーが不安になるかもしれないから。

 


待合室で「バート」と大声で呼び捨てにする。が、あなた自身のことは「ドクター・ジョーンズです」と紹介するか、何もいわない。バートを長時間待たせ、あれこれ憶測させる。住所、氏名、電話番号を五回も答えさせ、症状は10回も言わせる。そして、何の説明もせずに血圧を20回も計る。手違いでバートに迷惑をかけたが、何もいわない。バートが怒るかもしれないから。

 


騒々しい音をたてる。ものすごく騒々しい。一日二十四時間、週七日間ずっと。物音で一晩に十三回、それから朝6時ごろにもバートを起こしてしまう。カートをがらがら押し、ポケベルをピーピー鳴らし、廊下で笑い声を立てる。バートに食事を与えるが、本人が空腹かどうかは関係ない。バートから夜食を頼まれたら、厨房が閉まっていると答えるか、パンを一切れもっていく。変な臭い、ぎらぎらした照明、殺風景なベッド、夜は孤独、昼間は退屈。バートの意見も手助けも、好みも、価値感も、身の上話さえも求めない。
バートが自分の人生を、特技や知恵、専門知識や器用さを、友人知人のことを話そうとしても、手短にこういう。「せっかくだけど、バート、悪いね、もう引継ぎの時間なんだ」
バートは芝刈り機を時速62マイルで走らせることができる。あなたは?できない。

 


-でも、そんなことはどうでもいいでしょ?

 


いや、どうでもよくない。患者は私たち医療者に富をもたらし、私たちがそれをがらくたにする。患者中心主義とはあらゆることを尊重することだ-何もかもを-患者、家族、コミュニティが病気と闘うため、健康を取り戻すために、あらゆることを。それはつまり、自然治癒という自然資本を用いることだ。それを少しでも無駄にしているかぎり、本物の患者中心主義とはいえない。

 

 

さて、専門家である金融機関のみなさま。
医療行為を、融資案件の取扱いと被せて置いて考えてみた場合に、ギョッとしてはいないだろうか。
 複雑な金融商品に対する顧客への説明
 重複した書類の徴求
 担当者の頻繁な交代
 融資判断や格付、金利に対する顧客への説明の果たしかた
 融資申し込みに対しての審査にかける時間
 不要な資金やサービスの押し売りセールス
 債務者を自立から遠ざける融資対応
など
医師にとっての患者と同様、金融機関にとっての顧客も、収益やコスト、リスクをコントロールする対象というだけでみていないか。拙書「バリューチェーンファイナンス」では何度も触れているが、金融機関にとっての顧客は、他者である誰かではなく、自分が部分を構成する”われわれ”であるととらえている。つまり、金融機関にとって顧客とは、信頼と尊敬を置くべきパートナーであり、リソースであり、自分自身である。金融機関にも、ドンベリック氏が行っているような顧客中心主義の発想がもっと生まれ、普及してきてもよい。いや、それは”われわれ”である、あなたや 私が始めるべきことなのだろう。